世界の空の色と

世界のどこかを旅しています

インジュと約束④

結婚式の当日、パタヤのビーチは朝から輝くような青空に恵まれた。

ビーチに面したガーデンには、白い花と竹で作られたアーチが設置され、椅子が整然と並べられていた。青い海を背景に、タイと日本の国旗が静かに風になびいていた。

 

僕は白いタキシードに身を包み、アーチの下で待っていた。心臓は激しく鼓動していた。両親は前列に座り、温かい笑顔で僕を見つめていた。

音楽が流れ始め、参列者全員が後ろを振り返った。インジュが父親に腕を取られて歩いてきた。

彼女は純白のウェディングドレスに身を包み、髪にタイの伝統的な花の飾りを付けていた。彼女の美しさに、僕は息を呑んだ。

 

 

 

インジュが僕の隣に立ち、二人で海に向かって立った時、僕は彼女の手をそっと握った。

 

式は英語、日本語、タイ語の三カ国語で進行された。

誓いの言葉を交わす時、僕はタイ語

「私はあなたを愛しています、これからもずっと」と言った。

インジュの目に涙が浮かび、彼女は日本語で

「私もあなたを愛しています、これからもずっと」と答えた。

 

指輪の交換の後、僕たちは「三三九度」の儀式を行った。

三つの盃で酒を三口ずつ飲み交わす、日本の伝統的な結婚の儀式だ。

インジュは初めての日本酒に少し戸惑いはあったようだが、最後まできちんと飲み干した。

最後に、僕たちは赤い糸で結ばれた小さな人形を、参列者全員に見えるように掲げた。

「この赤い糸は、私たちの運命の絆を表しています」

僕は説明した。

「日本では、運命の人同士は目に見えない赤い糸で結ばれているという伝説があります」

インジュが続けた。

「タイにも似た伝説があります。『クー・カム』、前世から結ばれた二つの魂。今日、私たちはその絆を形にします」

「二つの文化、二つの国、でも一つの愛」

僕たちは声を合わせて言った。

参列者から温かい拍手が沸き起こり、僕たちは初めて夫婦としてのキスを交わした。

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レセプションは、ビーチに面したテラスで行われた。日没時、空は紫色とオレンジ色のグラデーションに染まり、海面は金色に輝いていた。

 

テーブルには、日本料理とタイ料理が並び、ゲストたちは両国の味を楽しんでいた。乾杯の後、インジュの友人ソンポンがスピーチのために立ち上がった。

「インジュ、おめでとう」

「正直に言うと、最初は僕は彼のことを信じていなかった。遠い国の見知らぬ男性が、インジュの夢を応援すると言って現れた時、僕は疑っていた」

彼は少し恥ずかしそうに笑った。

「でも今、彼があなたをどれほど愛しているか、そしてあなたの夢をどれほど大切にしているかが分かる。二人の愛は、距離や文化の違いを超えた。それは本物の愛だ」

ソンポンは僕の方を見た。

「彼女を幸せにしてくれ。彼女はそれに値する最高の人だから」

僕は立ち上がり、彼と固く握手を交わした。

「約束するよ」

続いて、僕の親友が京都からのビデオメッセージを送ってきた。

彼は流暢な英語で二人を祝福し、「いつか京都でも祝いの宴を開こう」と誓った。

 

ダンスタイムでは、タイの伝統舞踊と日本の盆踊りが融合したパフォーマンスが披露された。インジュと僕は、練習した振り付けで最初のダンスを踊った。彼女の手を取り、彼女の目を見つめながら、僕は幸せで胸が一杯になった。

 

「インジュ」

僕は彼女の耳元でささやいた。

「これが夢じゃないと言ってくれる?」

彼女は柔らかく笑い、僕の頬にキスをした。

「夢じゃないよ。私たちの新しい現実。これからも一緒に歩んでいこうね」

夜が更けるにつれ、パーティーは最高潮に達した。

インジュの従兄弟たちが持ち込んだ伝統的なタイの楽器の音色が、ビーチに響き渡った。僕の母は、タイの年配の女性たちに手ほどきを受けながら、伝統舞踊の動きを真似ていた。父は、インジュの父とタイのウィスキーを酌み交わしながら、言葉の壁を超えて笑い合っていた。


星空の下、インジュと僕はしばらくビーチを歩いた。波の音だけが聞こえる静かな場所で、二人は立ち止まった。

 


「ありがとう」

インジュが突然言った。
「何に対して?」
僕は彼女の手を握りながら尋ねた。
「私の夢を信じてくれて。バンコクのバーであった時から、ずっと支えてくれて」
彼女の目は月明かりに照らされて輝いていた。
「私の大切な人たちを、自分の家族のように受け入れてくれて」
僕は彼女の手に優しくキスをした。
「僕こそありがとう。君のおかげで、僕の世界は何倍も広がった。君の文化、君の家族、そして君の愛」
二人は黙ってしばらく海を見つめた。
月の光が波に反射して、銀色の道のように見えた。

「ねえ」
インジュがささやいた。
「部屋に戻りましょう」
「うん」

今日という日が人生の中で何番目に素晴らしい日かはわからない。
でも僕の生きてきた人生の中で一番素晴らしい日であることは確かだ。
そしてこれからもインジュが側にいる暮らしが待っていることが今は嬉しい

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翌朝、起きるとインジュはベランダの椅子に座って外を眺めていた。

「おはようインジュ」

と目をこすりながらインジュに話しかける

「おはようあなた」

インジュは満面の笑みで挨拶を返してくれた

「私達は結婚したのよ、信じられる?前にこうやってパタヤのビーチを見ているときは考えもしなかったわ。」

少し考える素振りをしながら僕は答える

「僕はちょっとだけそうなったら良いなと思っていたよ」

「もうっ!あなたはいつもそういう事を言わずに隠しちゃうんだから」

「ごめんごめん」

「今後からはどんな些細なことでも私に教えてね、私もあなたの支えになりたいのよ」

「今でも十分なっているよ」

インジュは微笑みながら僕の肩に頭を寄せてきた。

 

インジュと約束③

プロポーズの翌週、インジュと僕は結婚の準備を始めた。

バンコクの街はすでに6月の暑さに包まれていた。

 

僕の会社のバンコク支社立ち上げの準備も忙しくなる一方だったが、週末はインジュと計画の話し合いに充てていた。

「日タイ両方の文化を大切にしたいね」

インジュは結婚式場のパンフレットを広げながら言った。彼女のアパートのリビングテーブルは、結婚関連のカタログで溢れていた。

 

 

「そうだね」僕は彼女の隣に座り、肩を寄せた。

「インジュの家族も、僕の家族も、どちらも大切にしたい」

インジュは少し考え込むように言った。

「私の両親は、伝統的なタイ式の儀式を少し取り入れたいって言ってるの。お坊さんに祝福してもらうとか」

「もちろん、それはぜひやろう」

僕は頷いた。

「僕の親も、タイ式の結婚式を楽しみにしているよ」

「結婚式の場所は...」

インジュはパンフレットの中からひとつを取り出した。

パタヤのビーチはどう?バンコクからそう遠くないし、海を見ながらの式になるし何より私達の思い出の場所だし」

パタヤ...」

僕は微笑んだ。

「素晴らしいね。僕の両親も海が好きだから、喜ぶと思う」

その夜、僕たちはインジュの両親を訪ね、結婚式の計画について話し合った。

パタヤのビーチで式を挙げたいと思っています」

僕は丁寧にタイ語で説明した。インジュに教えてもらったタイ語の練習の成果が少しずつ出ていた。

インジュの父親は満足そうに頷いた。

「良い選択だ。パタヤは美しい。そして...」

彼は少し照れくさそうに続けた。

「かつて私も妻と付き合いだして、最初の休暇で訪れた場所がパタヤだった」

僕は驚いた。

「そうだったんですね」

インジュも驚いていた

「聞いたこと無かったわ!」

「ああ、普段そんな話はしないからね」

インジュの父親は言った。

「だから君たちの計画には賛成だ、いい選択をしたね」

インジュの母親は涙ぐみながら微笑んだ。

「これでやっとあなた達が結ばれるのね」

その言葉に、僕の胸は温かさで満たされた。

 

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7月上旬、僕の両親が両家の顔合わせの為に京都からバンコクに到着した。

彼らは初めてのタイ訪問に興奮していた。

「インジュちゃん、久しぶり」

母は空港でインジュを温かく抱きしめた。

「卒業おめでとう。そして、結婚もおめでとう!私も嬉しいの!」

インジュは練習中の日本語で答えた。

「ありがとうございます、お母さん。また会えて嬉しいです」

父も笑顔で彼女に頭を下げた。

「立派になったね。最後に会ったのは京都に訪ねて来た時だったね」

その夜、二つの家族は初めて顔を合わせた。

インジュの両親は、最高のタイ料理のレストランを予約していた。

両家の父親たちはすぐに打ち解け、時折僕のつたない通訳と翻訳機を介しながらも、熱心に会話を交わした。

「あなたの息子さんは本当に素晴らしい」

インジュの父親は僕の父親に言った。

「彼なしでは、インジュの夢は実現しなかったかもしれない」

僕の父親は謙虚に首を振った。

「いいえ、インジュさんが素晴らしいのです。彼女の聡明さと情熱に、息子は心を動かされたのだと思います」

母親たちも、言葉の壁を超えて笑顔を交わしていた。

インジュは両家の橋渡し役として、時に日本語、時にタイ語で会話を繋いでいた。

彼女の姿を見て、僕は誇らしさを覚えた。

 

 

---

 

結婚式の準備は着々と進んだ。僕たちはパタヤのビーチリゾートを会場に選び、8月末の日程を決めた。タイと日本、両方の文化を取り入れた式になるよう、細部まで計画した。

「インジュ、これ見て」

ある日、僕は彼女に小さな紙袋を渡した。

「何これ?」

彼女は好奇心に満ちた表情で中を覗き込んだ。袋の中には、赤い糸で結ばれた二つの小さな和風の人形があった。

「日本には『赤い糸』にまつわるお話があるんだ」

僕は説明した。

「運命の人同士は、目に見えない赤い糸で結ばれているという。この人形は母が作ってくれたんだ。結婚式に飾りたくて」

インジュの目が輝いた。

「素敵...」

彼女は人形を大切そうに手に取った。

「タイにも似たような言い伝えがあるの。二人の魂が前世から結ばれているという。『クー・カム』って言うんだけど」

「クー・カム...」

僕はその言葉を噛みしめるように繰り返した。

「僕たちもそうかもしれないね。前世から結ばれていた」

インジュは微笑んだ。

「だから、こんなに離れていても見つけ合えたのかもね」

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8月末、パタヤのビーチは穏やかな波と優しい日差しに包まれていた。結婚式の前日、タイの伝統的な儀式が行われた。

 

 

朝早く、僕とインジュは伝統的なタイの衣装に身を包み、お坊さんたちの前に座った。僕の両親も、少し緊張した様子ながらも、タイの習慣に従って儀式に参加した。

 

お坊さんたちの読経が始まると、インジュは静かに目を閉じた。

彼女の表情は穏やかで、神聖な雰囲気に満ちていた。僕も彼女に倣い、目を閉じた。タイ語の詠唱は理解できなくとも、その響きは心に深く染み渡った。

 

儀式の後、インジュの祖母が僕たちの前に進み出た。彼女は白い糸を持ち、まずインジュの頭に巻き、そして僕の頭にも同じように巻いた。

「これは『サイ・シン』といって、二人の魂を結ぶ儀式なの」

インジュが小声で説明してくれた。

「祝福の意味があるんだよ」

祖母は温かい笑顔で僕たちを見つめ、タイ語で何かを言った。

「何て言ったの?」僕はインジュに聞いた。

「『二つの川が一つになるように、二つの命も一つになりますように』って」

インジュの目には涙が光っていた。

続いて、両家の年長者たちが順に進み出て、僕たちの手首に聖水をかけながら祝福の言葉を述べた。僕の両親も、少し緊張しながらも、この美しい儀式に参加した。

「インジュ」

僕は儀式の合間に彼女の耳元でささやいた。

「君のことをこれからも大切にするね」

彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「私もあなたを大切に想うわ」

インジュと約束②

バンコクの街は、5月の熱気に包まれていた。

タクシーの窓から見える街並みは、2年前に初めて訪れた時よりも僕にとって馴染み深いものになっていた。

スーツケースを持ち、僕はインジュの両親の家に向かっていた。

胸の内の緊張を抑えることができなかった。

 

 

インジュの実家は、バンコク郊外の閑静な住宅街にあった。

玄関のドアを開けたのはインジュ自身だった。

彼女は僕を見るなり、小さな歓声をあげて駆け寄ってきた。

 

 

「やっと来たね!」

インジュは僕をぎゅっと抱きしめた。

「また会えて嬉しい」

「僕も」

僕は彼女の髪に軽くキスをした。

「卒業と就職おめでとう。君はとうとう色々な事を成し遂げたよね、本当にすごいよ」

インジュの両親が居間から出てきた。

インジュの父親は以前よりも表情が柔らかくなっていた。

母親は少し遠慮がちに微笑んでいた。

「お久しぶりです」

僕は丁寧にタイ語で挨拶をした。

インジュに教えてもらった言葉だった。

「お招きいただき、ありがとうございます」

リビングの席につくと僕は緊張しながらも今の思いを伝えた。

「インジュのご両親に再びお会いできて、本当に光栄です」

僕は真剣な表情で言った。

「まず、お詫びしたいことがあります。4年前、突然娘さんとご家族の人生に入り込み、ご心配をおかけしてしまったこと。申し訳なく思っています」

インジュの父親は黙って聞いていた。母親は少し表情を曇らせた。

「しかし、同時に感謝の気持ちも伝えたいです。その後インジュの話しをしっかり聞き届けていただき、インジュを信じ、彼女の夢を尊重してくださったこと。彼女の選択を、最終的には受け入れてくださったこと。それは本当にありがたいと考えています」

僕はインジュの方を見た。彼女の目には涙が光っていた。

「インジュは素晴らしい女性です。彼女の情熱、努力、そして優しさ。それはご両親の愛情があってこそだと思います。僕はただ、彼女の夢を応援するきっかけを作っただけに過ぎず、彼女の今日の素晴らしい結果を作ったのは紛れもなくご家族とインジュ本人の努力であると考えています。重ねてありがとうございました」

インジュの父親は咳払いをした。

「最初は戸惑ったよ。遠い国の、知らない男性が娘に近づき、学費を出すと言った時は。でも…」

彼は息を吐いた。

「娘が大学に通いだしてから建築の話をする時の目の輝きを見たんだ。それは本物だった。それを支えてくれたのは、あなた。だから、こちらこそ感謝している」

母親も静かに頷いた。

「インジュの卒業式のスピーチを聞いて、あなたが彼女にとってどれほど大切な人か分かったわ」

僕は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

その後僕らは夕食を囲み、インジュのここまでの努力とこれからの輝かしい未来に祝杯を揚げた。

 

食事が終わり、家を出ようとするとインジュの父が僕に話しかける。

「それで、これからどうするつもりなんだい?」

僕はインジュに聞こえないように静かに答えた。

「今日、インジュと大切な話をする予定です。もし許していただければ、後ほど改めてご報告させてください」

インジュの父はは少し驚いた表情をしたが、すぐに優しい笑顔に変わった。

 

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夕暮れ時、僕とインジュはタクシーに乗り込んだ。

「どこに行くの?」インジュが尋ねた。

「特別な場所だよ」

僕は微笑んだ。

「今日は久しぶりにキミに会えた、特別な日だから」

タクシーは高層ビルが立ち並ぶバンコクの中心部へと向かった。

停車したのは、川沿いにある高級ホテルの前だった。

「ここ…」

インジュは驚いた顔をした。

「このホテルのルーフトップバー、予約取るの難しいって聞いたけど」

「大丈夫、予約してあるよ」

僕は彼女の手を取った。

「行こう」

2人は入口の階段を登り、エレベーターホールに向けて歩き出した。

エレベーターで最上階に上がると、そこには息を呑むような光景が広がっていた。

 

バンコクの街が夕暮れの光に包まれ、チャオプラヤ川が金色に輝いていた。

ルーフトップバーのテラスには、他の客の姿はなかった。

「あれ?誰もいないね」

インジュは不思議そうに周りを見渡した。

「今日は貸し切りにしたんだ」

僕は少し緊張した声で答えた。

「え?貸し切り?」

インジュの目が丸くなった。

「どうして?」

 

僕は彼女に答えずに、夜景が一番キレイに見えるテーブルへと彼女を案内した。

テーブルの上には、白いバラの花束と一つの小さな箱が置かれていた。

「インジュ」

僕は彼女の手を取った。

「僕たちが出会ってから5年が経ったね」

「そうね」

彼女は優しく微笑んだ。

「長かったような、短かったような」

「君が日本に来てくれたあの日、『2人のことを、あきらめない』と言ってくれた時、僕は心から感動したんだ」

僕は彼女の目を見つめた。

「それから2年、君は本当に頑張ってきた。建築の勉強も、バイトも、そして…僕との関係も」

インジュの目が潤んできた。

「君は自分の夢を追いかけながら、いつも僕のことも考えてくれた。僕も同じだよ。毎日京都で仕事をしながら、君のことを考えていた」

僕はゆっくりと席を立ち、彼女の前にひざまずいた。

「インジュ、僕は君と一緒に歩んでいきたい。君の夢を、僕の夢を、一緒に叶えていきたい」

僕はテーブルの上の小さな箱を取り、開いた。中には、シンプルながらも美しいダイヤモンドの指輪が輝いていた。

「インジュ、僕と結婚してください。君を愛しています」

インジュは両手で口を覆い、その両目から涙がこぼれ落ちた。

周りの景色は夕暮れからバンコクの夜景へと変わり始めていた。

チャオプラヤ川の水面が、街の灯りを反射して輝いていた。

「・・・はい」

 



 

彼女はついに言った。

「もちろんよ」

僕は彼女の指に指輪をはめた。ぴったりだった。

「でも、どうするの?」

インジュは少し落ち着いてから聞いた。

「私はまだバンコクで働き始めたばかりだし、あなたは京都で…」

「それについては、実は…」僕は小さく笑った。

「僕の会社がバンコクに支社を出すことになったんだ。僕が立ち上げメンバーの一人として来ることになった」

「え?本当に?」

インジュの目が輝いた。

「うん。だから、しばらくはバンコクで一緒に暮らせる。そして、将来的には君が日本に来る可能性もあるし…僕たちならきっと、どんな距離でも乗り越えられる」

インジュは僕の腕に飛び込んできた。

「信じられない。こんなに素敵なサプライズ…」

僕は彼女を抱きしめた。

「まだあるよ」

僕がウェイターに合図すると、テラスの端からランタンが空に向かって放たれ始めた。バンコクの夜空に、小さな光の粒が次々と浮かび上がった。

「・・・コムローイ」

インジュはつぶやいた。

「タイの文化を尊重したかったんだ、僕と君の門出を空に託そうと思ってね」

僕は静かに言った。

「これからも、お互いの文化と想いを大切にしながら、新しい道を歩んでいこう」

インジュは僕の肩に頭をもたせかけた。

「京都とバンコク、日本とタイ…これからはどんな物語が待っているのかな」

僕は彼女の髪に軽くキスをした。

「それは、これから二人一緒に作っていこうよ」

夜空を見上げながら、僕たちは静かに乾杯した。

チャオプラヤ川の上に浮かぶ光のランタンは、まるで僕たちの新しい希望のように、ゆっくりと夜空へと昇っていった。

 



 

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翌日、僕たちはインジュの両親の家に再び訪れた。

二人で並んで座り、報告をした。

「お父さん、お母さん」インジュは緊張した面持ちで言った。

「私たち、結婚することになりました」

彼女は左手を見せた。指輪が光っていた。

インジュの母親は涙を流し、すぐに彼女を抱きしめた。

父親は黙って僕の方を見ていた。

 

「娘を幸せにしてくれるか?」

彼は静かに尋ねた。

「はい」

僕は真摯に真剣に答えた。

「これからの人生をかけて、誓います」

父親は長い間考えていたが、最後に立ち上がり、僕に手を差し伸べた。

「歓迎する、息子よ」

僕は彼の手を握り、深く頭を下げた。

インジュの顔には、これ以上ない幸せな笑顔が浮かんでいた。

インジュと約束①

バンコクの3月は、すでに暑さが厳しくなり始めていた。

インジュは大学の図書館で建築設計の最終プロジェクトに取り組んでいた。

窓から差し込む夕陽が彼女のノートを黄金色に染めている。

卒業まであと数ヶ月。4年間の学生生活が終わりに近づいていた。

 

 

「インジュ、まだここにいたのか」

ソンポンの声に彼女は顔を上げた。小さく微笑みながら、

「うん、最後の課題だから完璧にしたくて」と答える。

ソンポンは席に座りながら、

「君の頑張りはすごいよ。でも君自身の意志で頑張っているの?」

と少し批判的な口調で言った。

インジュは一瞬息を止めた。ソンポンが「意志」と言うとき、それは日本にいる彼のことだと分かっていた。

「違うよ。もちろん彼には感謝してるけど、これは私自身の夢だから」

ソンポンは小さく舌打ちをした。

「あいつがいなければ、君はこんなに苦労しなくて済んだかもしれない。学費のことも、バイトも」

「それは違うわ」

インジュはきっぱりと言った。

「彼がいなかったら、私はそもそも建築を学べなかった。彼が私の夢を応援してくれたから、今がある」

「金で君の将来を買っただけじゃないのか?」

「もうその話はやめて」

インジュは少し声を強めた。

「彼はただ私を信じてくれただけ。私も彼に学費を返済してるし、それに...」

彼女は立ち上がり、バッグから一通の手紙を取り出した。それは日系の大手建設会社からの内定通知だった。

「見て。私、やり遂げたの」

ソンポンは手紙を見て、少し驚いた表情を浮かべた。

「大和コンストラクション?」

「そう。日系の会社。いずれは日本の本社で働けるかもしれない」

彼女の目は希望に満ちていた。

卒業後の未来が、少しずつ形になってきていたのだ。

 

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その夜、インジュはアパートの小さなベランダで僕とのビデオ通話をしていた。

「3月の京都はどう?桜はまだ?」彼女は熱心に聞いた。

「まだだよ。でももう少しだね」と僕は答えた。

「でも、インジュが見たときより、今年は早いかもしれない」

インジュは2年前、2年生の春休みに京都を訪れた。

あの時、僕たちの関係は崖っぷちだった。

仕事と距離に疲れ、僕は諦めかけていた。

 

でも彼女は突然京都に現れ、「あきらめない」と言ってくれた。

あの日から、僕たちの絆は以前より強くなっていた。

「ねえ、良い知らせがあるの」

インジュは嬉しそうに言った。

 

「前に言ってたコンテストの結果、発表されたんだ」

「それで?」

僕は期待を込めて聞いた。

「優勝したよ!」

彼女は嬉しそうに声を弾ませた。

「審査員特別賞も!」

「おめでとう!」

僕は心から喜んだ。

「インジュ、君はすごいよ。本当に」

彼女の笑顔が画面越しにも輝いて見えた。

「これも全部、あなたのおかげ」

「違うよ。これは全部インジュの努力だよ」

僕は静かに答えたし心からそう思っている、インジュは成し遂げたのだ。

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卒業式が近づくにつれ、インジュの日々はさらに忙しくなっていった。

昼間は大学でプロジェクトに取り組み、夕方はバイト先の建築事務所で実践的な経験を積み、夜は内定先の会社からの課題をこなす。

それでも彼女は僕とのビデオ通話の時間を大切にしていた。

 

ある日、インジュは会社のオリエンテーションから帰ってきたばかりだった。

「どうだった?」

僕は彼女の表情を見ながら聞いた。

「すごく良かった!部署も決まったよ。それで...」

彼女は少し緊張した様子で続けた。

「実は、入社後2年したら日本の本社で研修できる可能性があるって」

僕の心臓が高鳴った。

「それは...嬉しい」

「まだ確定じゃないけど、でもね...」

彼女は画面を通して僕の目をまっすぐ見た。

「私、頑張るよ。必ず日本に行くからね」

 

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卒業式の前夜、インジュは両親と一緒に夕食を取っていた。

最初は彼女の夢の話で険悪だった関係も、インジュの努力と成果を見て少しずつ改善していた。

「娘よ、明日はついに卒業だね」

父親がグラスを上げた。

「おめでとう」

「ありがとう、お父さん」

インジュは微笑んだ。

「あなたの日本人の彼氏は来ないの?あなたの大切な時なのに」

母親が聞いた。まだ少し不信感を持っているようだった。

「仕事で来られないの。でも...」

インジュはスマホを取り出し、僕からの祝いの花の写真を見せた。

「心では一緒にいるよ」

父親は少し考え込むように言った。

「あの男性には感謝している。君の夢を誰よりも応援してくれたのは彼だ」

「でも将来あなたは日本に行くつもりなの?」

母親は心配そうに聞いた。

「まだ決まったわけじゃないけど、いつか。だって私の夢、それに...」

インジュは少し恥ずかしそうに笑った。

「彼との未来も、あるって信じたいから」

両親は黙って顔を見合わせた。

彼らも娘の決意の強さを知っていた。

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卒業式の日、インジュは同級生たちと共に晴れやかな表情で卒業証書を受け取った。

建築学科首席の栄誉も得た彼女は、壇上でスピーチをする機会も与えられた。

 

「...そして最後に、私の夢を信じ、支えてくれた全ての人に感謝します。友人はもちろん、遠く離れた日本から私を応援し続けてくれている大切な人もいます。皆さん全てとの縁がなければ、今日の私はここにいませんでした」

会場の後ろで、ソンポンはその言葉を聞きながら複雑な表情を浮かべていた。

彼は卒業式後、インジュに近づいた。

「おめでとう、インジュ」

彼は真摯に言った。

「素晴らしいスピーチだったよ、正直に言って感動したよ」

「ありがとう、ソンポン」

「あのね...僕が彼のことを誤解していたかもしれない」

ソンポンは少し照れくさそうに言った。

「君を本当に大切にしているんだね、彼は。君の今日の言葉を聞いて理解したよ」

インジュは優しく微笑んだ。

「うん。私たちにはとても強い絆があるの」

「インジュ・・・、実は僕はずっと君のことが好きだったんだ」

ソンポンは4年分の思いをインジュに告げる

「だから彼の事を邪険に扱って、彼と別れてくれればと願っていたんだ」

「でも今日の君の笑顔と彼の話を聞いて気づいたよ、君の幸せに彼は必要なんだね。」

インジュは思ってもみないことに戸惑いつつもソンポンに話しかける

「あなたが私をそんな風に思ってたなんて知らなかった、、、気づかなくてごめんなさい。あなたは私にとってかけがえのない友人だし、あなたも私の支えの一つよ」

「ただ、ごめんなさい。私のその部屋にはもう人がいるの」

ソンポンは小さなため息をつきつつインジュに答える

「もちろん、わかっているよ。それに君が幸せなら僕も嬉しいんだ」

「インジュ、大変なこともあると思うけど幸せになってね」

「ありがとうソンポン、私も頑張るしあなたも頑張ってね、いつでも応援してるわ」

2人は4年間学んだこの学校からそれぞれの未来へと羽ばたいていった。

 

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その日の夜、インジュは一人家のベランダに立っていた。

バンコクの夜景が彼女の前に広がっている。

スマホが鳴り、画面に僕の名前が表示された。

 

「おめでとう、インジュ」

彼の声が聞こえた。

「今日のスピーチ動画送ってくれてありがとう、さっき見たよ。タイ語だから翻訳しながらだったけどとても素敵だったよ」

「ありがとう」

彼女は嬉しさに少し涙ぐみながら言った。

「私ね、これからも頑張るよ。日本にまた行けるように」

「インジュ」

僕は静かに言った。

「実は、来月仕事の都合がつきそうだから、バンコクに行くことにしたんだ」

「え?本当に?」

インジュの声が弾んだ。

「うん。それで...その時に話したいことがある」

「どんなこと?」

インジュは好奇心に満ちた声で聞いた。

「その時までの楽しみにしておいて」

僕は少し照れくさそうに言った。

「何よー、教えてよー!」

バンコクの夜空には星が輝き、インジュの胸には希望が満ちていた。

「来月ね、待ってるわ」

インジュはそう答えた。

「私の大切な人の為だもの」

距離があっても、二人の心はいつも繋がっていた。

それはタイと日本という国境を越え、これからも続いていく。

インジュの決意④

関西国際空港は、朝の光を浴びて輝いていた。

インジュの出発まであと1時間。僕たちは手を繋いだまま、空港のラウンジで静かにコーヒーを飲んでいた。

「私、今日でバンコクに帰るけど、さみしくないの?」

インジュが目を細めて僕を見つめた。

その瞳には、少しの不安と、確かな自信が混ざっていた。

 

 

「さみしいよ。でも、君に戻る場所があること、君の夢を応援できることが嬉しいんだ」

僕は彼女の手をそっと握りしめた。

インジュは微笑み、カバンからスケッチブックを取り出した。

それは、京都滞在中に描いた建築の数々だった。

清水寺の舞台、金閣寺の優美な姿、そして現代建築の革新的なデザイン。

どのページにも、彼女の情熱と繊細な観察眼が表れていた。

「これらのスケッチを見て、私はもっと学びたいと思ったの。バンコクに戻って、日本とタイの建築の融合についてもっと学ぶつもりよ」

彼女の目は未来を見据えるように輝いていた。

「春休みが終わったら、すぐに授業が始まるんだっけ?」

僕が尋ねると、インジュは頷いた。

「そう、でも今回の京都訪問のおかげで、新しい視点が持てたわ。教授にも、日本の建築について詳しく報告するって約束してるの」

アナウンスが流れ、インジュの搭乗時間が近づいていることを告げた。

二人は立ち上がり、出国ゲートへと向かった。

 

人々が行き交う中、僕たちはゆっくりと歩いた。

言葉にしなくても、お互いの存在を感じ、一緒に過ごした日々を噛みしめるように。

「次は僕が君に会いに行ってもいい?」

僕の言葉に、インジュの顔が明るくなった。

 

搭乗ゲート前で、二人は立ち止まった。

周りには別れを惜しむ人々の姿があった。インジュは深呼吸をして、僕をまっすぐ見つめた。

「改めて言わせて、本当にありがとう。あなたがいなかったらここまで日本のことを学べなかったし、そもそも建築の勉強をできていなかったと思うの」

「それは言い過ぎだよ、僕がしたのは、ただ案内だけさ」

インジュは頭を横に振った。

「違うわ。あなたがいたから私も前に進むことができたの。それに...」

彼女は少し言葉を詰まらせ、それから続けた。

「あなたがいたから、自分の進むべき道に自身を持てたの」

最後の搭乗案内が流れた。インジュは僕の両手を取り、深く息を吸った。

「インジュ、そろそろ行かなきゃ」

「うん...」

二人の間に沈黙が流れた。言葉では表せない何かが、二人の間で交わされていた。

そして、インジュは勇気を出したように僕にキスをした。短いけれど、深い愛情を込めたキス。

「待っている。必ず会いに来てね」

彼女の言葉は、約束というより誓いのように聞こえた。

 

インジュはゲートへと歩き始めた。

振り返り、最後の手を振る彼女の姿は、朝日に照らされて輝いていた。彼女の未来も、きっとそのように輝いているのだろう。

 

僕は彼女が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。空港の大きな窓からは、晴れ渡った空と、飛び立とうとする飛行機が見えた。

インジュとの別れは、新しい始まりだった。

続きを諦めたはずの物語の、始まり。

 

僕たちの間には、京都の古い寺院のように、時を超えて続く絆が新たに築かれていた。

帰り道、僕はスマートフォンを取り出した。

インジュからのメッセージが届いていた。

「もうあなたが恋しいの、でも頑張るね」

シンプルな言葉だけど、その向こうには深い感情が込められていた。

僕は微笑みながら返信した。

「僕も。でも、次に会う日を楽しみにしているよ。もう君との未来を諦めない」

京都行きの電車に乗りながら、僕は窓の外を見つめた。

空は広く、そして青かった。インジュはいま、その空の向こうへと飛んでいる。

けれど、二人の心は、どこまでも繋がっていた。

インジュの決意③

静けさに包まれて

京都の朝は、清らかな空気と共に始まった。インジュと僕は早朝から出発し、まず向かったのは清水寺だった。朝日に照らされる舞台から見える景色に、インジュは息をのんだ。

「すごい...これが日本の木造建築なんだね」

 



インジュの目は輝き、その姿は建築を学ぶ学生というよりも、未来の建築家のようだった。彼女はスケッチブックを取り出し、寺院の構造を熱心に描き始めた。

「この支柱の配置と、屋根の曲線の美しさ...教科書で見たのとは全然違う」

僕は彼女の横に座り、静かに見守った。

彼女の集中している表情は、2年前と変わらず美しかった。

「日本の伝統建築は、自然との調和を大切にしているんだ。木材の特性を生かし、環境に溶け込むように設計されている、とガイドブックに書いてあるよ」

僕の説明に、インジュはうなずきながらスケッチを続けた。

清水寺の後は、三年坂、二年坂を散策した。古い町並みの中で、インジュは様々な伝統家屋の特徴に気づき、時折立ち止まって写真を撮ったり、メモを取ったりしていた。

「この格子窓の意匠、タイの建築にも取り入れられないかな」

彼女の言葉に、僕は微笑んだ。

「いいね、是非僕も実現したら見てみたいな」

インジュは少し照れながらも、自信を持って頷いた。

昼食は祇園の小さな和食店で取った。窓からは鴨川が見え、春の陽光が水面に反射して輝いていた。

「この店の内装も素敵ね。シンプルだけど、一つ一つの要素が意味を持っている気がするの」

インジュは店内を見回しながら言った。

「必要最小限のものだけで、静かな美しさを表現しているんだね」

僕の言葉に、インジュは考え込むような表情を見せた。

バンコクの寺院とは全然違う...でも、どちらにも独自の美しさがあるのね」

午後は金閣寺を訪れた。金色に輝く建物が池の水面に映る姿に、インジュはしばらく言葉を失っていた。

「これが...日本が誇る金閣寺

彼女の目には涙が浮かんでいた。

「ど、どうしたの?」

僕が尋ねると、インジュはゆっくりと頭を振った。

「感動して...私の夢は、こんな風に人々の心を動かす建物を作ることなの」

僕は彼女の肩に手を置いた。

「君ならきっとできる」

夕暮れ時、二人は哲学の道を歩いた。桜の花びらが風に舞い、道の両側の小川に落ちていく様子は、まるで絵画のようだった。

「明日はどこに行く?」

インジュが尋ねた。

「明日は京都の現代建築を見てみない?君が学んでいるのは現代建築でもあるわけだし」

彼女の顔が明るくなった。

「ぜひ!日本の現代建築も世界的に有名だもんね」

夜、インジュをホテルまで送り届けた時、彼女は突然立ち止まった。

「今日は本当にありがとう。建築学生にとって、こんな素晴らしい一日はないわ」

僕は微笑んだ。

「まだ始まったばかりだよ。明日も素敵な一日になるはず」

インジュはちょっと照れたような表情を見せ、それから思い切ったように頬にキスをした。

「おやすみなさい?それとも今日はもう少し一緒にいる?」

 

 

彼女は少し照れながらそういった。

「うん、もう少し君と一緒にいたいな」

彼女の言葉に、僕は頷き彼女と彼女の部屋へ行くことにした

 

インジュの部屋は、窓から京都の夜景が一望できる素敵な空間だった。

彼女はバルコニーへと僕を導き、二人で京都の灯りが織りなす美しい景色を眺めた。

「日本の都市の光は、バンコクとは全然違うわね。穏やかで、どこか詩的」

インジュは僕の肩に頭を預けながら言った。

彼女の髪から漂う微かな香りが、僕の心を落ち着かせると同時に高鳴らせた。

「インジュ、君と再会できて本当に嬉しい」

僕の言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げ、僕の目をまっすぐ見つめた。

「私も。あの時、あの電話の後、もう二度と会えないかもしれないって思ったの」
「ごめん、、、」
僕は彼女の手を取った。その手は少し冷たく、でも確かな温もりを感じた。
「あなたも私に会いたかった?」

「当たり前じゃない」

彼女は微笑んだ。

僕はインジュに今までの気持ちを伝えることにした。

インジュの明るい未来を自分が制限することになることが怖いこと、インジュには自由に色んなことをして欲しいこと、自分の年齢がインジュにはそぐわないこと。

インジュは何も言わずに頷きながら聞いていた。

「あなたの気持ちを話してくれてありがとう。」

「でもあなたは大切な事を忘れているわ。あなたにとってそれだけ大切だと思ってくれるている私はあなたのことを大切にしたいと思っているのよ。私にとってもあなたが大切なの。もうどこへもいかないで。」

インジュは切なそうにそう呟いた。

 


会話は深夜まで続き、二人の距離はいつしか縮まっていた。

僕は彼女の顔に触れ、彼女もその手を取った。

最後には言葉は必要なかった。

お互いの気持ちは、すでに通じ合っていた。
インジュの唇は柔らかく、優しかった。

抱き合う二人の影が、月明かりに照らされて壁に映っていた。

 

翌朝、僕は京都の朝日に目を覚ました。

隣では、インジュが穏やかな寝息を立てていた。

彼女の横顔は、朝日に照らされてより一層美しく見えた。


「おはよう」
彼女が目を開けると、そこには昨夜とは少し違う、より親密な絆を感じさせる微笑みがあった。これから始まる二人の新しい一日は、今まで以上に特別なものになるだろう。

インジュの決意②

再会の瞬間

 

僕は京都の自宅でくつろいでいた土曜の午後、突然のメッセージに驚いた。

「インジュが京都に?」

信じられない気持ちで、僕はすぐに返信した。

「本当に京都にいるの?どこにいるか教えて、すぐに会いに行くよ」

インジュからの返信には、彼女が宿泊しているホテルの名前が書かれていた。

僕は慌てて準備を始め、家を飛び出した。

 

インジュのホテルは京都駅を京都タワー側に出て右に少し進んだところにある。

指定されたこのホテルのロビーにつき、周りを見回すと、そこに彼女の姿があった。

 



 

インジュは以前よりも少し大人びていた。髪は肩まで伸び、その立ち姿には自信が感じられた。彼女が僕に気づき、目が合った瞬間、お互いの時間が止まったようだった。

「インジュ…」

「・・・久しぶり」

二人の距離は、ゆっくりと縮まっていく。インジュの目には、涙が光っていた。

「なんで来るって、言ってくれなかったの?」

僕の問いかけに、彼女は少し照れた表情を見せた。

「サプライズにしたかったのよ」

僕は手を彼女に差し出した。

「京都へようこそ」

インジュは僕の手を取り、顔に近づけた

「ありがとう」

挨拶を終えた僕らはホテルのロビー近くの喫茶コーナーに入った。

 

時を超えて

「大学はどう?建築の勉強は進んでる?」

僕の質問に、インジュは目を輝かせて答えた。

「うん、すごく充実してる。今年はタイの伝統建築と現代デザインを融合させたプロジェクトで賞をもらったんだ」

彼女はスマホの画面を僕に見せた。そこには彼女がデザインした建物の3Dモデルが映し出されていた。伝統的なタイの屋根の曲線と現代的なガラスの外壁が美しく調和していた。

「すごいね、インジュ。君の努力が実っていて僕も嬉しいよ」

僕は心から感心した。彼女の作品には、彼女自身の成長が表れていた。

「これも、あなたのおかげ」

彼女の言葉に、僕は少し困惑した表情を見せた。

「僕のおかげ?」

「うん。あなたが私を自由にしてくれたから、自分の道を思い切り進めることができたの」

インジュは真剣な表情で僕を見つめた。

 

「あの日、距離を置こうって言ってくれたのは、私のことを本当に考えてくれたからだって、今なら分かる」

僕は黙ってインジュの言葉を聞いていた。

「それに…これを渡したくて」

彼女はバッグから一つの封筒を取り出した。

「学費の一部。まだ全部は返せないけど、少しずつ返していくつもり」

僕はその封筒を見て、頭を振った。

「受け取れないよ。あれはお父さんに納得してもらうのに必要な約束だったけどもう必要なくなったでしょ」

「でも…それでもあなたに受け取ってほしいの、その為に頑張ってきたんだから」

「インジュ、、、わかった受け取るよ」

彼女の目に再び涙が浮かんだ。

「本当に、ありがとう」

時間が過ぎるのも忘れて、二人は話し続けた。インジュの大学生活、新しい友人たち、建築事務所でのバイト。そして僕の近況も。仕事のこと、京都での生活のこと。

窓の外の景色が夕暮れに変わり始めたとき、僕は立ち上がった。

 

「少し京都の街を散歩しようか?」

 

夜の京都は、昼間とはまた違った魅力を放つ。

古い町家の間を流れる川、橋の上から見える月明かり。

インジュと僕はタクシーにのり河原町を超え、木屋町の川沿いを歩いている。

静かな小道を歩きながら、さらに多くの話をした。

「ねえ、覚えてる?パタヤで見た夕日」

インジュの言葉に、僕は懐かしい記憶を思い出した。

「ああ、あの時の夕日は特別だったね」

「私、あの写真、今でも持ってるよ」

彼女は小さく微笑んだ。

「僕も持ってるよ」

二人は橋の上で立ち止まり、川面に映る月を見つめた。

「インジュ、京都に来てくれて驚いたけど、本当に嬉しいよ」

「えへへ」

インジュの手が、そっと僕の手に触れた。僕はその手を握り返した。

「明日は京都を案内するよ。建築好きの君なら、楽しめるはずだ」

「うん、5日間は滞在するからあなたが休みの日だけでも会えると嬉しいわ」

 

急な来訪のため、気の利いた店の予約は取れなかったので、木屋町沿いの行きつけの日本料理屋にインジュを案内し、町家を改装した店内でタイ人でも手を付けやすいメニューを店主に頼んでご飯をすることにした。

 

タイには多くの日本料理が入り込んでおり、寿司や焼き鳥などはあちらでもポピュラーな料理だ。しかし本場の日本の味にインジュはとても驚いている

 

「タイにも寿司はあるけど、ここの寿司の方が、どれもとても美味しいわ!」

「お米も水もタイのものとは違うのもあるからね」

「喜んでもらえてよかったよ」

 

ご飯を食べながら2人は積もりに積もった話を続けた、離れた時間を取り戻すように。ご飯が終わるとまた川沿いの道を歩き、タクシーを捕まえてインジュをホテルまで送り届ける。

 

彼女は部屋によって行くか聞いたが、移動で疲れた彼女を気遣い今日は早く寝るように話をし、その代わり明日は休みなので朝から迎えに来ることを伝えた。

彼女は少し残念そうだったが、実際疲れもあったので渋々納得し部屋へと戻っていった。

 

2日目

翌朝、インジュは早起きしてホテルの窓から見える京都の景色を眺めていた。

今日は彼と一日中、京都を巡る予定だ。

彼女は軽く化粧をし、彼を待つ。

 

待ち合わせ時間より少し早く、彼女はホテルのロビーに降りた。

そこには既に待ち人が待っていた。

「おはよう」

「おはよう、インジュ」

僕は彼女を見て微笑んだ。

「今日は建築家の卵にぴったりの場所をいくつか案内するよ」

インジュは嬉しそうに頷いた。

「楽しみ!」

二人はホテルを出て、朝の京都の街へと歩き出した。

桜の花びらが風に舞う中、インジュは僕の隣を歩きながら、幸せな気持ちに包まれていた。

 

彼女はバンコクに戻った後も、建築の勉強を続け、夢の実現の為に努力している。

一度は離れると決めた関係だったが、何故か彼女はいまここにいる。

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インジュは確かなことを一つ決めていた。

どんなに離れていても、二人の絆は決して消す事がないようにするということを。

「ねえ、私の夢を話しても良い?」

インジュは空を見上げながら僕に話しかける。

「私ね、いつか日本とタイの文化を融合させた建物を設計したいの。

そして、その建物に私とあなたで暮らすのよ。」

 

彼はとても驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。

「それは素敵だね」

私は彼の手を握り、二人は春の京都の中を歩き続けた。

未来はまだ見えないし離れた時間はまた生まれるだろう。

だが私は彼の手を離さないと、インジュは信じることにしたのだ。